アメリカの銃規制と独立宣言 - アメリカの銃規制と独立宣言



 1999年に、「知らなくても良いアメリカ」というエッセーを書いてみました。「タレイタウン」、「ニュー・ヨーク市及び州」、
 「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ」の3部からなるもので、本来は「タレイタウン」から順に載せる積もりでしたが、
 銃による大量殺人が頻繁に起きた事もあり、予定を変え「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ」 を最初にしました。

 一般の日本人には理解できていない事もあり、何故この様な事が繰り返し起きるのかというのを知って頂きたいと
 思います。
以下は当時書いたものに書き足しをしたものですが、ほぼ原文のままです。
銃規制以外にモンロー主義に  ついても書いてありますので、アメリカの対外政策を理解する上での小さな参考になれば、と思います。
 最初の項目は銃規制について。
日本ではアメリカ憲法を引き合いに出して論議される事が多いようですが、憲法以上に深く根ざされた思想があります。 これが解ると何故、法的には規制が難しいのが理解できると思います。(2013年1月)


銃規制とアメリカの独立宣言及び憲法


 この何年かの間に、アメリカで何人かの日本人が拳銃によって殺されました。このような事件が起きる度に、アメリカでの銃器所持規制を求める声が日本国内に上がるようです。
しかし、殆どの人がアメリカの事情を知らずに騒いでいると思われます。

 勿論この事は、アメリカ国内でも大きな問題となっています。
特に最近ティーン・エージャーによる銃の乱射事件が立て続けに起きており、アメリカ国内での銃規制に対する議論は過去最大の盛り上がりを見せているようです。
しかし日本人が騒いだ所で、アメリカ人の相当数から無責任な内政干渉と決め付けられるのが関の山。
 私自身も拳銃所持には反対ですが、これ又外国人が云々できる問題ではないのです。

この問題、突き詰めて行くとアメリカの 基本的な思想にたどり着きます。
アメリカの独立宣言、即ち建国の精神、そしてアメリカ憲法自体に直接関わっています。
もし外国人が、お前の国の憲法は良くないから改正しろ、と言ってきたら日本人はどのように反応するでしょうか。
アメリカに銃規制を求めるというのは、日本憲法のここを改正しろと外国から言われるのと同じような事となります。

 憲法の解釈論議はアメリカでは結構盛んに行われています。 連邦裁の判決の多くは、憲法をどう解釈するかのサンプルを提示する為と言って良いでしょう。
しかし銃火器規制に関しては、銃の圧力団体の力が強すぎ、大きな問題にはなっても先には進みません。
 何故私がこんな事を書いているかと思われるかもしれませんね。(ここ迄1999年の原文)
 まずは、 独立宣言の前部分  原文と、その要訳をしてみます。

 IN CONGRESS, July 4, 1776.
 The unanimous Declaration of the thirteen united States of America,
 
 When in the Course of human events, it becomes necessary for one people to dissolve the political bands which have connected them with another, and to assume among the powers of the earth, the separate and equal station to which the Laws of Nature and of Nature's God entitle them, a decent respect to the opinions of mankind requires that they should declare the causes which impel them to the separation.

 We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.--That to secure these rights, Governments are instituted among Men, deriving their just powers from the consent of the governed, --That whenever any Form of Government becomes destructive of these ends, it is the Right of the People to alter or to abolish it, and to institute new Government, laying its foundation on such principles and organizing its powers in such form, as to them shall seem most likely to effect their Safety and Happiness. Prudence, indeed, will dictate that Governments long established should not be changed for light and transient causes; and accordingly all experience hath shewn, that mankind are more disposed to suffer, while evils are sufferable, than to right themselves by abolishing the forms to which they are accustomed. But when a long train of abuses and usurpations, pursuing invariably the same Object evinces a design to reduce them under absolute Despotism, it is their right, it is their duty, to throw off such Government, and to provide new Guards for their future security.--Such has been the patient sufferance of these Colonies; and such is now the necessity which constrains them to alter their former Systems of Government. The history of the present King of Great Britain is a history of repeated injuries and usurpations, all having in direct object the establishment of an absolute Tyranny over these States. To prove this, let Facts be submitted to a candid world.    ・・・中略・・・
 We, therefore, the Representatives of the united States of America, in General Congress, Assembled, appealing to the Supreme Judge of the world for the rectitude of our intentions, do, in the Name, and by Authority of the good People of these Colonies, solemnly publish and declare, That these United Colonies are, and of Right ought to be Free and Independent States; that they are Absolved from all Allegiance to the British Crown, and that all political connection between them and the State of Great Britain, is and ought to be totally dissolved; and that as Free and Independent States, they have full Power to levy War, conclude Peace, contract Alliances, establish Commerce, and to do all other Acts and Things which Independent States may of right do. And for the support of this Declaration, with a firm reliance on the protection of divine Providence, we mutually pledge to each other our Lives, our Fortunes and our sacred Honor.

独立宣言の抜粋
 ・・・全ての人間は平等に生まれ、神から譲る事のできない権利を授けられた。
その中の幾つかをあげれば、生命(又は 生活)、自由、そして幸福への追求、である。
これらの権利を守る為に、人々の間に政府が設立された。

(この政府の)合法性は治められる側の同意に基づくものである。
どのような政府であれ、これらの目的に破壊的になって来た時、その政府を改革、又は廃止し(abolish)、先の原則を
基礎として、力を結束させ、人民の安全と幸せに最も効果のある新しい 政府を設立するのは人民の権利である。
勿論、思慮分別で左右されるが、些細な、或いは一時的な理由で長期確立された政府を変えるべきではない。
経験に拠れば、人類は今迄に慣れて来た型から抜け出し自身を正すよりは、悪には我慢できるので辛抱する方向に行ってしまう。

しかし長きに渡る弾圧と圧政、又完全な独裁者の下で明らかに目標が 押さえられた時には、
そのような政府を倒し(throw off)、人民の将来の安全の為に新たな守護者(政府)を追求するのは人民の権利であり、人民の義務である。・・・

 この後の文章はイギリス国王への苦情のようなものになっており、何故独立を決意したかの説明です。
 独立宣言をしたアメリカ、その独立理由をそのまま自国の将来に当てはめ、イギリス政府が行ったような圧政ならば、
 独立戦争と同じように立ち上がり(その政権を倒し)、新たな政府を樹立してよい、としたのです。
これを明文化しているのはアメリカ位のものでしょう。まずこの事をはっきりと頭に入れておいて頂きたいと思います。

 独立宣言と憲法の翻訳について英和辞典を使って訳すると、或る部分で武力と言う訳にはなりませんが、英英では
 どのような方法を取っても、という意味が含まれます。


 1789年に議会に提出され、1791年から施行された憲法への 最初の改正法 10条中の<b>第二条(Second amendments) は、このようになっています。
      良く統率された民兵は自由な州の安全に必要であり、(その為に)人々が兵器を保持し、携帯するのを
      妨げてはならない。

 憲法では各々の州の自由と独立性の為に、一般の人が武器を取り、立ち上がり、自由を守らなければならない、
即ち  アメリカの独立運動が起こった時のように、一般人が民兵(ミリシア)として武器を取り、国を守る、
又は、蜂起もできる、という事になります(州の独立運動等を含め)。

民兵が立ち上がり政治を変えるには武器が必要、即ち武器を保有する権利は、国民全体にあるのです。
これが基本的なアメリカ精神です。
殆どのアメリカ人は賛成しなくとも理解はしている筈です。

知人に相当にリベラルな男がいましたが、武器の所有に関しては、独立の精神から来ているものであり、
こんな 素晴らしい憲法はない、武器を持って立ち上がり政府を倒しても良い等といっている国はアメリカしかない。
自分自身は銃を所持する気等毛頭無いが、憲法の一部として、銃規制には反対する、そして銃を所持するしないは、
個人個人の問題だと言い切っています。     (ここ迄ほぼ1999年の原文)

 ここでアメリカの州の話を書くと、州は日本の県とは異なり、一つの独立自治体であったと言っても良いでしょう。
外国との条約、貿易、防備(軍備)、州をまたいでの事案等、州だけでは決められない事を各州の代表が連邦政府に集まり 対処してきたと言えます。
時が経つにつれ、連邦政府の力が強くなってしまったのは時代の成り行きですが、それでも現在日本で考えられている道州制より遥かに独立性は強い。

 売上(消費)税は州税で、州により税率は異なりますし (モンタナ州では 0%  ニュー・ヨーク州では州税が 4%、
ニュー・ヨーク市徴収分が 4.875%で計 8.875%、住んでいる地区で異なりますがニュー・ヨーク州では大体7〜8%)、
酒税、タバコ税、ガソリン税(一部は国税)等も州により税率は異なり、州の財源となります。
隣の州税が安いと、隣州迄、買い物に出かけたりもします。
身近な例で言えば交通違反の罰金も市町村の財源となります。(州警察は州で、地方自治体の警察はその自治体が
維持します。小さな村で予算が無く警察組織の無い所もあり、州警察に頼みますが、罰金はその村の収入となります)

 各州の法律には独自性があり、この州ではOKでも隣の州では駄目という事例も多く、住むにはその州の州法をある程度頭に入れておかなければなりません。   (2013年書き足し)
 

 独立宣言と憲法の話に戻ります。 次は、 個人の財産権の保全 があります。
これは絶対的なもので、この権利を守る為に身の危険を感じる場合、正当防衛ができる、
即ち銃を使っても良いという見解になります。

 西部開発史の中で、保全の為だけに武器を使っても罪にならなかった場合が多かったのです。
例えば馬を盗まれる、 というのは、広い西部ですから間接的に死を招く可能性があり、
馬泥棒は現行犯の場合、その場で射殺しても殺人にならない場合が多く、
捕まり次第その場でリンチという結果になる事が多かったようです。

 次に、誰かが自分の敷地内に予告なく入って来たとします。 その相手が武器を持っていないとは言い切れない。
勿論警告をして侵入行為が止れば、それで終わり。 
しかし警告を発した後でも、侵入行為が継続され、自分の身が危ないと感じる場合、
自分(達)、又は財産を守る為の正当防衛、即ち発砲が可能となります。
まるで西部劇のカウ・ボーイと農民達との争いのようですが、今でもこれが現実となり得るのです。

 全てに対して危機感が欠如してきている日本人には解り難いかもしれません。
自分の主張をする場合、それが他人から見ると逆に自分にも当てはまる、という事です。
自由というのは何をしても自由という事ではない、それが判らない日本人が未だ多いようです。
これに関しては第1部か第2部に書いてあると思いますが、日本に帰ってから感じた事を含め、書く事ができれば、
と思います。(この項2013年)


 州によっては今でも拳銃の所持から携行迄、認められています。
1972年アリゾナ州ツーソンに行った時、テン・ガロン・  ハットにガン・ベルト。拳銃を腰から下げ、まるで西部劇映画そのままの格好をしている男を何人か見かけました。
何か時代錯誤の感が流れていたような気がします。 アリゾナ州は今でも見える形での拳銃携行を認めている筈です。

勿論大都市や、それを抱える州では、拳銃の規制が厳しい所があります。
ニュー・ヨーク市は大変に厳しく、多額の現金を常時持ち歩いている職業でもなければ、所持許可すら出ません。

但し、三時間もドライブすれば、その地方自治体内に限り、警察からの許可で携行(見えない形で)しても良い所が多いようです。
但し、その町を出る時には、身に付けてはいけない事になっています。
ここで注意しなければならないのは拳銃の所持と携行はあくまでも違うという事です。

 ニュー・ヨーク市では、店の経営者とかが自己防衛の為に銃を隠し持っている場合が結構あるのですが、
いざ使用すると大変な羽目に陥入ります。
もう15年位も前の話ですが、友人がこんな話をしてくれました。

イースト・ヴィレッジで雑貨類の輸入、販売している店の経営者と知り合いになったのだが、或る日突然店が閉まったのが気になり、訪ねてみると、 その人はノイローゼ気味。
どうしたのかと聞いてみると、
閉店間際、大男がブッチャー・ナイフ(精肉用の裁断ナイフで  日本の肉切り包丁とは比べ物にならない程大きい)
を手に提げて入って来た。
もう閉店だ、と言っても止まらない。
料金カウンターの彼に向かってどんどん近寄って来る。
危険を感じた彼はカウンターの下に隠してある銃(拳銃ではない)に手を伸ばし、それ以上近寄ると撃つぞと叫んだ。
男はナイフを振り上げ、止るような気配はみせない。
再度警告した時には目の前、夢中で引き金を引いたそうです。
男は倒れ、主人は警察にすぐ連絡しました。

その後が大変。
田舎でしたら正当防衛の裏付けを取り、それで全てお終い。 
この場合、殺された男には精神異常的なところがあったとかで、店の主人は正当防衛を主張したのですが、
何回も警察署に呼ばれ事情徴取。
挙句の果てに大陪審にかけられました。

その質問の内容は、何故発砲したかに始まる訳ですが、
相手がブッチャー・ナイフを振り上げて目前迄来たから 夢中で発砲した、と彼が説明すると、
相手がナイフを振り上げたとしても、殺意があったかどうか、どうして判るのだ、と尋問され、
一瞬声が出なくなったと友人に語ったそうです。

このような細かい質問が何週間も続き、最終的に殺人に 関しては、不起訴処分になったそうですが、
本人はノイローゼ。 自分が死んだ方が良かったのか、と私の友人に漏らしたそうです。
その後店を開ける事も無く、畳んで何処かに引越したとの事。
私もこの事件、ニュースで知っていましたから、友人の話は本当でしょう。(1999年)

 マンハッタンの中でも銃が如何に身近かかという例を書きます。 (以下2013年)
 1970年代の初期、フリーランスの助手をしていた頃、或るスタジオで急ぎの撮影があり、ベタ焼きとラフ・プリントを翌朝に渡す事になっていました。
撮影は夕暮れ時に終わり、フィルム現像、ベタ焼き乾燥が済んだ頃は、とうに夕食時を過ぎていました。
「このまま続けてプリントをする」と言うと、
写真家は「夕飯を食べに帰るが遅くに戻ってくる」
どれをプリントするかを決定後、ってしまいました。

スタジオはビルの2階のワン・フロワー。 暗室はその一番奥、
仕切っただけの大きな部屋の突き当りに大きな鉄製扉の非常口。
開けると小さな空き地になっており、前面、両隣からの非常階段もこの空き地に降りています。

非常口扉は消防法により、鍵は付けられない(商業施設に良く見られる、内側に付けられた重いバーを押すとラッチが
外れる扉はOKですが、当時、大変に高価で、古いビルでは見かけられなかった)ので、かんぬきが嵌めてあるだけ。
帰り際に
「一寸こっちに来てくれ」 と暗室の隅に呼ばれました。

何個かのダンボール箱の一つから拳銃を出し、 私に 説明を始めたのです。 
聞かずとも判るスミス・アンド・ウェッソンのスナップ・ノーズ・リヴォルヴァー(筒先の短い回転式弾倉拳銃)。 
弾は込めてありません。

「時々、非常階段で音がする。 何が起こるか判らないから有り場所を教えておく。 
音がしたら箱の所に行き、 拳銃を出す準備をした方が良い。
弾はこの箱に入っている。 込め方はこう。安全装置はこれ。」

黒光りした拳銃を渡してくれました。 弾が入っていなくてもズッシリと手に重みを感じ、これで人が死んでしまうんだ、と
ガーンと頭を殴られたような衝撃感じました。

その後、このスタジオはホログラムの商業化の仕事を始め、自分も振動の少ない深夜にホログラムを造ろうと暗室で
何回か深夜作業をした事がありますが、幸いにも部屋の隅に行く必要はありませんでした。(ここ迄2013年)

 毎日の通り道にある普通のビルの一つに場違いな真鋳板の磨かれた名札。
気にも留めていなかったのですが、或る日 歩き読みをすると、
「・・・・ライフル・アンド・ピストル・レーンジ」とあるではないですか。
銃とピストルの射撃訓練所です。

聞いた所によると地下にあるんだとか。エンパイア・ステート・ビルから歩いて15分。
こんな都心でも銃が撃てるのです。(現在はありません)
一寸郊外 に出ると、余り目立たない場所に射撃場を見かけます。
銃は持ち込みのみ、貸してはくれません。 銃を所有する友人と行けば撃てるようですが。
知人の一人は警官と知り合い、拳銃射撃をしたとの事。

最近拳銃購買者、特に女性が激増しているそうです。
護身用としてバッグに忍ばしたり、 車や寝室に隠したりしているようですが、
背後からとか、寝込んでいる時に襲われた場合、 返って危険な状態を作り出します。
自分の持っていた銃で殺されたりでもしたら死に際が悪いというもの。

アメリカの殺人事件の多くは顔見知りの間で起きています。
これは、身近な所に銃を置く事により、人殺しを招いているという証でしょう。

 銃器の規制が難しい事の現実的な理由としてもう一つ書きましょう。
NRA と言っても西武鉄道のニュー・レッド・アローの事ではありません。
最初に西武の特急電車を見た時にはどきっとしました。
NRA はナショナル・ライフル・アソシエーションの略。アメリカ人ならまず誰でも知っている名前です。
西武鉄道の上層部も知っていた?

 元祖はイギリス、1860年に組織されています。
アメリカでは1871年。 そもそもは銃の取り扱い、射撃の腕を向上する事を目的に始まりました。
会員の数は全米で300万とか。 しかし現状から見ればもっと多いでしょう。
これはあくまでも登録しているメンバーの数。

 同じような使用者による団体組織で、強力な政治圧力団体としてAAA(アメリカン・オートモービル・アソシエーション、
日本で言えばJAF)があります。 こちらは、自動車の安全性を調べ会員に知らせる事も業務ですから、
自動車製造業界とは一歩距離を置いています。

 NRAの場合、銃自体よりも使用上の安全性の方が大きな問題ですから、利害は一致しており
製造業者から資金がもろに出ています。
他の競技と同じようにコンペを開き、メーカーが後援していますが、
道具自体の性能が重要な ポイントを占めるスポーツなので、車のレースと同じくメーカーの影響が大きいと思います。

メーカー側も国内の警察、警備用の需要を満たせば、輸出と一般消費者しかありません。
一般への規制が厳しくなると売り上げが落ちますから、そんなこんなで NRA、政治の動きには目を光らせています。
どんな小さな法律でも、それが地方レベルであれ、連邦政府レベルであれ、不利な法案が提出された時には、
すぐさま会報で採り上げ、反対キャンペーンを繰り広げます。
テレビの宣伝であったり、集会であったり、場合によっては、その地方の議員に手紙を書く事を呼びかけます。
NRA 派の議員の名前、オフィス住所、最近はファックス・ナンバーからメール・アドレスもリスト・アップされ、手紙の見本迄載せる事も頻繁とか。
投書攻勢をかける訳です。
これは署名されている手紙ですから、法的な効力があります。
こういう時の会報の記事の内容はかなり一方的で、理屈が通っているように見えても、反対派からみれば首をかしげるような事が多いようです。
私は勿論NRAの会員ではありませんから、会報を読んだ事はありません。

しかしAAA の例で挙げれば、ガソリン税の値上げとか、その用途について自動車に直接関係ない法案が出されたりすると、会報はすぐさま反対キャンペーンをはります。
公共運輸、特に通勤電車等に使うのには絶対反対。
彼等の意見は、直接税だから払った人の為に還元されるべきで、それ以外に使用するのはけしからん、
という考えです。
もっともな意見なのですが、公共運輸に金をかけ、ラッシュ時の渋滞が少しでも減れば車の利用者にも
良い筈なのですが。

 一般的に言えば、使用者から構成される団体が政治的に動いた場合、大変強い力となります。
反対派というのは組織が無いも同然の場合が多く、潜在的な数が多かったとしても、まとまった意見とはなりません。

選挙の投票時に付随投票が行われる事があり、その地方自治体の議題が住民投票の形で決められます。
有名なカリフォルニア州の固定資産税の軽減、英語でしか教育をさせないとか、
テキサス州の人種による仕事の割り当てを廃止する案等が有名になりました。

この時に、例えば銃の規制案を付けたとしても動員をかけられる側の方が圧倒的に有利。
たとえ電話のリサーチで反対派が少し位多かったとしても投票には反映しません。

これを上手に利用しているのが宗教団体。 キリスト教信者で保守派が多いのですが。
大きなのではキリスト教連合。
まず小さな地方レベルの教育委員会の会長とか、政治に直接関係の無い所から始めます。
こういう選挙は住民の関心も低く、投票率も悪いので動員をかけられる方が勝。

選出された者は、次の高いレベルの選挙の時に、その団体と共に他の候補者を応援し、又動員をかける訳です。
その内に町や郡の有力な役職が宗教団体と密接な人間で占められている事に気が付きます。
保守の強い田舎だけではなく、リベラルの白人が多いコミュニティにもよく起きる事です。

郊外の住宅地では地元の政治に興味がない人口がかなりあり、過去の選挙から割り出せば、
リベラルでもノン・ポリの住民がどの程度の投票率なのか、どんな候補に投票しているか判りますから、
後は団体がどの程度の動員をかけられるかがポイントになります。

保守と、リベラルの差が1.5倍の比率であっても、リベラルの投票率が50%以下ならば、
団体が動員する固定票だけでも当確になる可能性大なのです。
民主主義の根本である選挙制度の盲点ですね。
日本で、これが一番良く判っているのは一時の、共産党と公明党でしょう。
このやり方では、政党がどこであれ関係はありません。 票が大きく割れそうな所で大動員をかければよいだけですから。

 州のレベルから上になると少々話は違ってきます。
まず、地方での虚構で成り立った実績を基に、自分達と意見の合わない候補に揺さぶりをかけるのです。
これこれの議案やアイデアに賛同できない候補者には投票はおろか、候補者に不利なデマでも流す、
とかやる訳ですね。
宗教的なモラルで揺さ振るのですから道理は通っています。
州や連邦議会レベルの選挙では宗教団体等の圧力で立候補をやめる人も少なくはありません。
NRAでも銃所持自由派の候補には全面バックアップしているようです。
 なおNRAの現在の会長は、あのチャールトン・ヘストン。
1996年頃にイメージを変えようという事から、名誉会長に担ぎ出されました。
ヘストンは好きな俳優の一人だったのですが、この事で私には大変なイメージ・ダウン。がっかりしました。
 現在は正式な会長に任命されています。(現在2013年1月ですが会長はヘストンではありません)

TVのコマーシャルで  スポークス・マンをしている彼を見る度に、いい加減にしてくれと言いたくなります。
これと対照的なのがクリント・イーストウッド。
彼は、はっきりした銃の所持禁止派です。 二人とも映画のイメージとはまるで逆なのが面白い。

 ここで銃の事を少々。 
ギャング映画等でトミー・ガンとして有名なトンプソン・サブマシーン・ガン。
当初全ての銃を制圧するという目的で軍、警察用に開発、製造されたようですが殺傷力が余りにも強く、
そのような銃の必要性はない、と政府関係はどこも購入せず、海外への輸出にも失敗し、
通信販売に活路を見出したそうです。

目をつけたのがギャング達、 力のバランスが逆転してしまいました。
このトミー・ガン、対人殺傷目的以外での使い道は余り考えられないという事で、
暫くして市民の所有は禁止されましたが、時既に遅し。 FBI でも慌てて対ギャンク用に購入したとの事。
もっとも第二次大戦時には、その殺傷力に着目した軍が大量に買い上げました。

 地方警察の拳銃制式採用の際、大きな都市では大変な調達数になります。
ニュー・ヨーク市が拳銃を代えた時には、  グリック製 9mm自動拳銃が 2万2000丁購入されたとの事。
一警察としては大変な数ですね。
何故こんな大量になったのかというと、麻薬をめぐる抗争で、組織の連中がフル・オートマチックの
9mm拳銃を使うようになった事からです。
禁酒法時代と同じく、主に縄張り争い用に使われるのですが、これを押さえる筈の警察はまだ回転式のレボルバー。
全弾撃ち尽くし、 弾を込めている間に撃たれてしまうという可能性があり、実際にそのような事も起きました。
警察の組合等が問題だと騒ぎカートリッジ式の自動拳銃が検討されたのです。

装弾は早くても、ジャムし易いとか、暴発の可能性も大と言われましたが、
警官の生命を助ける可能性が高くなるとされ、グリックが新規採用になったのです。
ニュー・ヨーク市の治安は市警察と、それに合併された交通局警察、市営アパート群を巡回する
住宅警察がありますが、全て銃を携帯しています。

 最近恐いのは、ホロー・ポイント・バレット。
既に採用している自治体もありますが、ニュー・ヨーク市警察でも採用決定されました。
この銃弾は先が柔らかくて凹みがあります。
第二次大戦中に日本、ドイツ陸軍が開発した対戦車用弾のデザインと似ています。
対戦車砲弾の場合、着弾の際に周囲より柔らかい前部に爆薬の破壊力が集中するのですが、
飛行中に凹部に圧縮された空気の圧力が加わり、そんなに大きな砲弾でなくても威力を増すという代物です。

拳銃弾の場合火薬が弾頭に入っている訳ではなく、人体も柔らかいので、圧縮された空気の影響は鉄板に対する程
効果は無いと思いますが、柔らかい銃弾というのが曲者。
なぜ銃弾迄威力の高い物に代えるのかというと、路上での撃ち合いで、一般市民が跳ね返り弾により
殺傷されるというケースが増えてきたからです。
ホロー・ポイントでは柔らかい為に、固い物に当っても跳ね返りません。
しかし弾が潰れる為に、人体の中では大変な破壊力を示します。
もし柔らかい部分に当り貫通した場合、銃弾の出口の穴は入り口の穴の何倍かの大きさになりますし、
体内に残った場合でも内臓が目茶苦茶になるそうです。
即ち怪我をさせて、戦闘意欲を削ぐ武器ではなく、殺人用の武器という事になります。

司法システムが犯罪の増加に追い付かなくなり、長い裁判で無罪になったり、釈放が早くなったり、怪我をされて税金を無駄遣いするよりは
(銃による怪我の場合、勿論救急扱いになる訳ですが、輸血だとか、弾丸の摘出、長期のリハビリテーション等で、大変な治療費がかかるそうです。又、貧困地域で多発しまうと、多くの場合、健康保険も持たず治療費も払えない被害者が多いのです)、碌でもない犯罪者にはさっさと消えて貰った方が、という事なのでしょうか。
勿論この銃弾、一般市民 には禁止されています。
 とはいえ、自由経済の国。制式採用を当て込んで生産ラインを造り、受注が期待程無ければ、
民間への販売という事になります。

 この数年、アメリカではウエイコの事件、オクラホマの連邦ビルの爆破、
コロラド州で発しモンタナ州で立てこもったフリーメン・グループ騒動とか、日本での赤軍派浅間山荘事件は別として、
首をかしげるような事件が起きていましたね。
これも独立宣言の精神からいえば当然起こり得る事。

 そもそも南北戦争自体が、ユニオン(合衆国)からの南部分離が目的でしたし、
その前兆ともいえる、ジョン・ブラウン事件はこれらの象徴ともいえるでしょう。
ブラウンは奴隷解放主義者で、カンサスに独自の州を作ろうと武力活動を始めました。

彼のお陰で州として認められた訳ではないのですが、州に昇格後、南部での奴隷の反乱を企て、
ウエスト・ヴァージニア州で奴隷解放の同調者と武器庫を襲撃、失敗して捕らえられ、反逆罪、殺人罪、
奴隷を解放運動の為に扇動した罪で絞首刑になっています。
この事件の事も幾つかの映画の題材になってはいますが、日本人には馴染みが薄いという事か
日本には入っていないようです。

 (2013年)興味深いのは、工業地帯を含み奴隷制を廃止していた北部は共和党、奴隷制度廃止に反対で農業地帯の
南部は民主党が強く、リンカーン大統領は共和党最初の大統領だった事です。
この時の大統領選挙の争点は奴隷制であり白熱した選挙戦だったそうです。
ゲティスバーグ宣言をしたリンカーンの真摯さは誰にも明白ですが、北部州の狙いは他にも考えられると思います。
現在は共和党が保守的で個人主義、白人の支持が多い、民主党はリベラルでマイノリティーの支持が多く、
福祉に力を入れようとしていますが、南北戦争の頃を見れば立場が逆転しているようです。 (ここ迄2013年)
 
 これらの事件には政府、政治に対する不満という一定の共通点があります。
勿論白人至上主義者達の行動もありますが、突き詰めれば制度への不満。
民主主義の国なのだから何も武力行使迄しなくても、というのは現代の日本人の考え方。
独立宣言にはっきりと謳われているのですから、それが暴動だとされても、彼等自身には大義名分があり、
どこからが 暴動、反乱で、どこからか改革なのか線を引くのは大変に難しいと思われます。

もし南北戦争で南軍が勝っていれば、 独立宣言に乗っ取り、新たな政府、又は国を作る、という事になり官軍となっていた筈です。
南北戦争での死傷者の数がアメリカが戦った全ての戦争で一番多かったと言う事実、
或る意味でのアメリカの思想の現実と言えるかもしれません。

 モンタナの事件も現体制への失望。税金不払いから始まり、FBI も出動し睨み合いとなりましたが、
政府側が立て篭もり地域を封鎖、撃ち合いに迄は至りませんでした。
彼等の意見に対してはこの付近の住民も同情的。 又、次の事件への種を蒔いたような気がします。

 その他、今迄の人種差別の代償に、黒人だけの国をアメリカ国内に独立させろ、とか
白人至上主義の連中、黒人だけでなく、ユダヤ人等も含めた極度の排他主義者達が、
新しい制度を要求し時々マスコミを騒がせています。
騒いでる間は言論の自由。 特定個人、人種さえ口に出さなければ訴えられる事もありません。
民主主義ですから少数派は声のみ、という事になるようです。

 憲法が出て来ましたから、次いでに気になる事を簡単に書き連ねます。


  アメリカ憲法の前文 を載せると、

 我々合衆国の人々は、より完璧な融合を計る為に、司法制度の確立、国内の安定の保証、
共通の防衛、一般福祉の推進をし、自由の恵みを我々自身と子孫の為に手に入れる為に 、
このアメリカ合衆国の憲法を法制化し確立する。

 第一条第二項では、下院議員は25歳以上で7年以上アメリカの国籍でなければならないとしています。

      第三項では上院議員は30歳以上、9年以上アメリカ国籍でなければならないと決めています。
      なお、この第三項に大統領の弾劾裁判についての項も記されています。

 第三条では大統領は生まれながらのアメリカ人であって35歳以上でなければならないと記されています。
 
 我々に興味深いのは、最初に施行された憲法ではなく、後程追加されているものです。

 1791年12月15日に施行された改正法第一条は、
     信教の自由。言論と出版の自由。
     平和的な集会と政府に対する苦情の改正を要求する権利を妨げる法律は作らない。

 第四条   個人の権利、家財産を守る為、捜査令状、捜索令状無しに、逮捕、捜索を行ってはならない。

 第五条   法の手続きがない限り、生命、自由、財産を取り上げてはならない。

 第六条   起訴された者は、速やかで公な裁判を受けられ、自分に対する証人を糾したり、自分に有利な証人を
          得る為の定められた方法を通して、法律弁護人を付ける権利がある。

 第十条   憲法の中で、合衆国に渡されていない権利は州に、憲法により州に渡されない権利は個人に委される。

 第十三条  奴隷や強制労働は、正式に有罪となった犯罪の処罰を除いて、合衆国の中、又は合衆国の法律下にある          場所に於いてあってはならない。

 第十五条 1870年3月30日施行。 第一項。 合衆国の市民の選挙権は、人種、肌の色、元の奴隷であるという事で
          合衆国や州に否定されたり、取り消されてはならない。

 第十八条 1919年1月29日施行。 飲む為の酒類の製造、販売、米国内、又は米国領土内での運送、持ち込み、
          持ち出しは、これより禁止される。 (禁酒法。宗教団体の強い要求による)

 第十九条  1920年8月26日施行。合衆国の選挙権は、性の違いによって合衆国、又は州から否定されたり、
          取り消されてはならない。  
      即ち女性の参政権です。女性優先等といいながら、先進国では遅いのですね。

 第二十二条  1951年3月1日施行。大統領の任期は二期迄。

 と、こんな感じになっています。


 この項は1996年頃に一回目の書き下ろしが終わっていましたが、今回、校正をしている最中、1999年4月22日に、
コロラド州 リトルトンの高校で在校生徒によるテロ事件が起きました。
ものまね事件が一ヶ月程たった今でも続き、今回は少々深刻。
国民の人気取りに必死なクリントン大統領は直ぐに記者会見を行っていますね。

コロラド州議会も、たまたま銃規制緩和法の審議中だったのですが、取り下げとなりました。
又、チャールトン・ヘストンが、銃を持った警備員が一人居たら、こんな事件は起こらなかった、とTVで声明を出し、
ひんしゅくを買っています。
何人居ようと、重装備で計画的であれば、死傷者は必ず出ます。
しかし NRA の主張は、事件がある度に、ガンの用意があれば、これに立ち向かう事が出来る、なのです。

 一昨日にも連邦議会で、銃のショーでの売買に身元調査を義務づける、という議案が出され、
共和党に押し潰されましたが、その直後ジョージア州の高校での乱射が起こり、
ゴア副大統領の一票で似たような議案が上院で可決されました。

日本ですとカメラ・ショー、自動車ショーと言えば、業界の見本市。新製品の紹介や宣伝をする為のものです。
私自信はガン・ショーに行った事がないので、ハッキリした事は言えませんが、TVのニュースで見ますと、
しょっちゅう行っていたコンピューター・ショーと同じようなので、参考に書きます。

これらのショーはプロモーターが小売店やディーラーを集めた販売会なのです。
コンピューター・ショーで言えば、会場を借り、商品を置くテーブル一個につき 4,50ドルをディーラーから取り、入場者から 5ドルから 10ドルの入場料を徴収して成り立っています。
品物は店で買うよりは安く、その場で試し操作はできますし、自分の好みで内部のパーツを組んでもくれます。

ガン・ショーも見た所同じような形態をとっているようです。
州の規制の厳しいニュー・ヨークでは宣伝すら見た事はありませんが、規制の無い州、緩い州では
銃が簡単に手に入ってしまいそうです。

 この5月(1999年)にはカリフォルニア州で銃メーカーに責任を取らせる訴えが起こされました。
確か、最近ジョージア州でも同じような裁判か法案が出されましたが、各事件が起きる前の事で、退けられています。
ここ迄来て、銃とは何かという本質的な問題がやっと問われるようになってきたようです。
拳銃は標的射撃用は別として、これで猟をする人もいないでしょうから、必然的に人間が相手。
ライフル等は、狩猟スポーツとしての位置が確立されていますし、隠し持って突然撃つというのも難しいでしょうから、売買、所有は認めざるを得ないでしょう。

 最近のティーン・エージャーの事件では、銃の売買を規制した所で、親が管理を怠っていれば銃規制等無いと同じ事。かといえ、管理を厳重にすれば、NRA言う所の、緊急の際に間に合わなくなる、で NRAは相変わらず何にでも反対。
もう出回っている銃の数が多すぎて、どうしょうも規制できないところ迄来てしまったようです。
半自動ライフル等は反動が激しく、狩猟用に使うには向いていず、正に 殺傷 兵器 なのですが、
これすらも全米レベルでの規制はできません。
アメリカ憲法を変えるのは、アメリカ国民の理念を変えるという事になるので無理でしょう。
 
 事の次いでに、アメリカの市民権申請用紙の質問には、以下のような項があります、
 
 三)法で要請された場合、あなたにはアメリカの為に武器を帯びる意志がありますか?
 四)法で要請された場合、あなたはアメリカ軍の非戦闘要員の任務をする意志がありますか?
 
 尚、一)はアメリカの憲法とアメリカの政府の形態を信じますか?
 二)はアメリカに対し完全なる忠誠を誓いますか?   と順番は少々逆でしたが。

 少々脱線しますと、昔アメリカのヴィザを取りに行った方はご存知だと思いますが、
この市民権申請用紙の前の方には、以前のヴィザ申請用紙のように、

過去、又は現在、あなたは共産党のメンバーであるとか、又は(共産党と)繋がりとか 関係がありましたか? 
又知りながら共産党の、又は他の組織、団体、又は個人を通して共産党を援助したり、応援した事がありますか、
又は共産主義を推奨したり、教えたり、信じた事がありますか、
又は知りながら援助をしたり、共産主義のになるような事をしましたか?
となっています。
その次の質問は、ナチのメンバーであったかどうか、という質問でした。 ;(以上1999年)



 ついでに、アメリカを理解するにはと言う事で、モンロー主義等も載せます。
以下も断りが無い限り1999年迄に書いたものです。(2013年1月)

  モンロー主義と世界の警察
 Monroe Doctrin (モンロー主義)と言うのをご存知ですか。
マリリン・モンロー・ファン・クラブのモットーではありません。
アメリカの外交政策の話になると、一頃呼ばれていた米帝国主義に代表されるような、戦争好きのアメリカ
というイメージが日本にはあるようですが、本当にそうなのでしょうか。

モンロー・ドクトリンは、1823年に五代目の大統領ジェームス・モンローが議会で政策演説をした時のものです。

モンローは1758年に生まれ、18歳の時に独立戦争に加わり、21歳の時にトーマスー・ジェファーソンのもとで法律の
勉強、25歳で大陸会議の議員選出。 32で上院議員、1816年に大統領に選出、1820年には再選されています。
モンローの次に選出されたのはジョン・クインシー・アダムス。
このモンロー・ドクトリンは1823年にモンローの指示によりアダムスが殆ど書いたといわれています。
この中で、
 ・・・・ヨーロッパ勢力は、アメリカ合衆国の権利と利害が伴う場合、自由と独立の地位を得、
これを存続してきた アメリカ両大陸を将来の植民地の対象として考慮してはならない
という原則を主張する好機であると判断した。・・・・

ヨーロッパ勢力間の、彼等自身の問題による紛争に、我々は何らかの形で関わった事もないし、そのような事は我々の政策にも合わない。

我々の権利が犯された時、又は脅かされた時には、我々は損害に憤り、自衛の為の準備を行う。

この半球(南北米大陸)の(独立運動の)動向に我々は必然的につながっており、その主張は全ての開けた公平な観察者には明白である。

この観点からすれば同盟国(ヨーロッパ諸国)の政治体系はアメリカとは本質的に異なる。
この違いは、各々の政府の違いにあるし、又(アメリカは)自衛の為に多大な血と財産を失い、
聡明なる市民の知恵で育まれた、他に類の無い偉大なる幸せを楽しんでいる事、である。

であるからして、それは率直さと、既に合衆国とこれらの勢力との間にある友好的な関係に負っており、
ゆえに、我々は、彼等がその主義をこの半球のいかなる部分にも広げようとする企て を、
我々の平和と安全を脅かすものであると宣言する。

 我々は、既に存在するどの ヨーロッパ勢力の植民地や保護領に対し干渉はしなかったし、
又、(これからも)干渉はしない


しかし独立を宣言し、それを維持している政府、そして大いなる思慮と合法的な原則で認められた独立を
ヨーロッパ勢力が弾圧したり、

彼等の将来を他の方法でコントロールする事は、合衆国に対する非友好的な行為でしかありえないとみなす。
これらの新しい政府とスペインとの戦争の際、
それらの国の(独立)承認時に、我々は中立を宣言し、この政策に固執して来た

合衆国としては、この国の責任者達の判断が、我々の安全保障に欠かせないと判断する時以外、何の変化もなければ、これからも(この方針を)固執し続ける。

 とモンローは主張しており、この演説方針は、以後のアメリカの外国政策に大きな影響を与えました。この背景には以下のような状況があります。

 1776年 アメリカの独立

 1792年 フランス革命 共和制がしかれ、オーストリアに侵入。戦域は徐々に拡大していく。

 1803年 フランスがイギリス、ロシア、オーストリア、スエーデンと開戦

 1806年 フランスから今のルイジアナ州を購入、ナポレオンのヨーロッパ統合戦争には中立を宣言。
     アメリカは貿易で漁夫の利を得ていたが、ナポレオンのヨーロッパ大陸へのイギリス製品輸入禁止に対抗し、
     イギリスは中立国に対し、事実上のヨーロッパ大陸経済封鎖を宣言、イギリス海軍の中立国船舶への立ち入り     検査により、多くのアメリカ船員が拿捕された。
        (イギリスは帰化制度を認めず、アメリカ国籍を取得した者をまだイギリス人として扱い、
         証明出来ないアメリカ生まれの者迄、拿捕後、イギリス船で強制的に働かせた)
 1812年 ついに議会はイギリスに対して宣戦布告をし、一進一退の戦いが始まった。

 1814年 欧州の戦争が終結、ナポレオンは退位させらる。
     この間アメリカは、独立後の国内整理と西方開拓に追われていたが、イギリスとの平和条約を結び
     アメリカ大陸でのイギリスの力の影響は減った。

 1818年 カナダとの間で北緯49度線を国境と定める。
 1823年 モンロー・ドクトリン

      ヨーロッパが落ち着き出すと、各国は又国外に目を向け始めます。
     ロシアがアラスカに興味を持てば、フランスがメキシコを窺い、カリブ海はまだスペインの天国。
     このような状況の基、モンローは、ヨーロッパ諸国が武力をもって南北米大陸に新植民地を作ったり、
     植民地の拡大をするのは許せない、又、その行為はアメリカ自身の平和と安全に危険なものである、
     と釘を差したのです。
     自国が植民地だったアメリカは、ヨーロッパの植民地主義に我慢ができなかったのです。

     アメリカが日本に開国をせまったのも、この頃の状況から考えれば、モンロー主義からと言えましょう。
     第一次阿片戦争が 1839年から 1842年。英国が香港を統治下にし、各国が租界地を作ったのはこの時。
     ペリー提督が日本に最初に送られたのは  1853年。
     イギリス、フランス、オランダ、ロシアを牽制する為に正式な国交を樹立させる、即ち独立法治国として
     日本を世界に認めさせようとした。
     海を一つ隔てただけで、日本がヨーロッパ諸国の属国的立場になって欲しくないと言うより、
     アメリカのインタレストを優先している方が強いといえるでしょう。
     中国のようになってしまえばアメリカの日本に対する貿易の機会も減るというもの。
     参考迄に書き及びますと、ハワイ、フィリピンはまだ スペインの統治下でした。
 
 1861年 ナポレオン三世がメキシコに軍を進め、

 1864年 メキシコに王政をしく。 アメリカは南北戦争の最中、モンロー主義でもないのですが、一応フランスに抗議

 1865年 戦争終了後、メキシコ国境に軍を送り、フランス軍を撤退させる。

     モンロー主義の方針を確認し、「自由の騎士」の旗挙げを象徴するような事件が1895年に起きました。
     スペインの植民地だったキューバの独立運動です。

     キューバの独立運動を押さえようとするスペイン軍の残虐性はアメリカの新聞に報道され、
     アメリカ国民の同情を買いました。
     勿論キューバに対するアメリカ民間からの経済投資も少なくはなかったのです。
     この間の弾圧の状況を、あのピューリッツアー賞で有名なジョセフ・ピューリッツアーと
     ウイリアム・ランドルフ・ハースト(映画「市民ケーン」のモデルとなった人物といわれています)が
     互いに所有する新聞でセンセーショナルに扱い、競ったのです。
     それによりアメリカ国内のスペインに対する開戦の世論は強まりましたが、当時の大統領は開戦反対派。
     スペインはキューバを自治領にする案を出しましたが、キューバの独立派はこれでも不服、
     膠着状態が続きました。

 1898年の2月、ハバナでの暴動の際、ハバナ港でアメリカ人救出作戦の名目で送られていた戦艦メーンが
     深夜突然爆発、サボタージュとの報が流れ「メーンを忘れるな!」という国を挙げての掛け声となった。

     (そう言えば「真珠湾を忘れるな!」というスローガンのスティッカーを貼った車を以前は良く見かけました。
     戦艦メーンに関していえば、事故との見方が強まっていたのですが、最近の検証で、ボイラーの爆発、
     粉塵によるものとされ、疑惑に包まれたサボタージュ説は最終的に打ち消されました。
     アメリカの庭先からスペインを追い出す格好の理由に、新聞も同調したと言えるでしょう)

    3月には、キューバを独立させない限り満足はしないという最後通牒を送りつけ、この際に議会で、
     アメリカはキューバを政治的支配下には入れないという附記をつけています。

    そして4月24日にはスペインとアメリカの戦争が始まってしまいました。
     当時のスペインはイギリスに負けてから下り坂の 一方でしたが、それでもキューバのみならず、
     フィリピンもまだスペインの植民地でした。
     当然の事ながらスペインにはアメリカと真っ向から戦う力は無く、キューバでの陸戦ではよく戦いましたが、
     フィリピンでのアメリカ海軍大勝利の後、8月には終局しています。

     この時にカウ・ボーイを集め、志願騎兵隊の隊長として馬にまたがり大活躍をしたのが、  後程、最年少(43歳)     で大統領になったセオドール・ルーズベルト。
     ニュー・ディールのルーズベルトとは遠い従兄弟同士で、 縫いぐるみのテディ・ベアのテディは彼の名前から
     来ていると言われています。
     彼の在任中にモンロー主義を示す国際的事件が中南米で幾つか起きていますが、これらは省略。

     なお日露講和条約を推し進めた事でルズベルトはノーベル平和賞を受賞しています。

     又、ダグラス・マッカーサーの父親は、部隊を引き連れマニラに上陸し、フィリピンの軍政長官となりました。
     もっとも  スペイン海軍が敗れた後のフィリピンの陸戦は八百長だと言われています。
     簡単に降伏したのでは独立ゲリラに対するスペインの格好がつかないとか。

     アメリカが海軍の本格的な増備に力を入れ始めたのも、この頃からです。
     キューバは独立し、アメリカはプエルト・リコとグアム島を手に入れました。
     ハワイも住民の希望によりアメリカ領となっています。

     当時の大統領マッキンレーはフィリピンに関して中立の立場を取っていましたが、
     国内ではフィリピンをも傘下に入れろ、という世論が高まり、スペインに 2000万ドル払う事により、
     領土としてしまいました。

     スペインにとっては何世紀も続いた植民地政策の最後の領地。
     これにより、 アメリカが好むと好まざるを問わず、エンパイア、即ち植民地を持つ帝国の一つとなって
     しまったのです。

     アメリカが独立させてくれる、と考えていた連中は、矛先をアメリカに変え、3年にも渡るゲリラ戦となり、
     この間 60万人、一説には 100万人ものフィリピン人が殺されたのではないかと言われ、
     アメリカの外交政策の汚点の一つとなりました。
     もっともヴェトナム戦争の時のようにアメリカ国内の世論が沸き上がり、政策を転換、その後独立を約し
     準備期間を待つ内に、第二次大戦に 巻き込まれていったのです。

     学生の頃、反米帝国主義というのが学生運動のスローガンでしたが、当時の私には、アメリカの何処を指して
     帝国主義と呼んでいたのか判りませんでした。
     多くの学生諸君も私と同じ様なものだったのではないかと今も思っています。

 1904年にはセオドール・ルーズベルト大統領が、国会でモンロー主義を一歩押し進めた演説をしています。
     内容は、ラテン・アメリカの諸国が間違いを起こした時には、アメリカは、国際的警察力としての力を行使する、     というものです。
     この後、モンロー主義の解釈は徐々に拡大されていきました。

 1940年代には南北アメリカの安全保障体制の形を取り始め、1947年の全米諸国との合意では、
     アメリカ大陸内のどの国に対する軍事攻撃でも、アメリカ大陸の全ての国への攻撃とみなす、
     となりました。 キューバ紛争時の海上封鎖は、この合意に基づいたものです。

     しかし、第一次、第二次の両大戦時に、当初アメリカはモンロー主義を通していました。
     どちらも最初はヨーロッパ内の紛争。 対岸の火でアメリカには直接の関係はありません。
     両大戦時共、ヨーロッパ援助の物資を運ぶアメリカ船籍を含めた商船が潜水艦によって次々に沈められ、
     ヨーロッパ移民が多かったアメリカ国民が憤りを示しても、参戦しようという世論には達しません。

     第一次大戦時には当初中立。その証拠にドイツ国債も英国国債と同時に米国内で売られていました。
     参戦した理由の一つに英国の豪華客船「リスタニア」が 1915年に潜水艦によって沈められ、
     1198人の死亡者の内 114人がアメリカ国籍所持者だった事があげられます。
     もっとも、実際には客船とはいえ、戦争物資がかなり積んであった為、誘爆が起こり沈没が早かった、
     と後程推測されています。

     当時の大統領ウイルソンは根っからの平和主義者、和平調停さえも模索していた程。
     早速ドイツに厳重抗議をし、非戦闘員への攻撃はしないという約束を取り付けます

     ウイルソンはアメリカを戦争に巻き込まなかったという事で1916年には 再選されており、
     この時期の彼を描いた映画がハリウッドで製作され、彼の人気の程を偲ばされます。

     そう言えば私が小学生高学年の頃、横浜に住んでおり、時々港に船を見に行きました。
     まだ客船華やかな頃で、アメリカの太平洋航路はプレジテント・ラインでした。
     一番大きくて美しかったのが、プレシデント・ウイルソン。 一際目立っていました。
     入出港時にはブラス・バンドが現れ、テープが飛び交い、大変な騒ぎでした。
     旅客専用船は確か3隻で、もう一隻はプレジテント・フーヴァー、3隻目は忘れましたが
     マッキンレーという記憶もあります。 プレジデント・ラインは貨客船も就航させていましたので。

     しかし反ドイツ感情は高まって行き、1817年にはドイツが潜水艦による無差別攻撃を再開。
     米議会も同年、ドイツに対する宣戦布告をするに至っています。
     第一次大戦後の国際連盟にはアメリカは加盟していません。 他国間同士の争いには関知しない
     という理由からです。
     それが故に国際連盟の力は弱いものとなりました。

     第二次大戦の時も同じような展開をしています。
     但しソ連ではスターリンが実権を握り、共産主義の基盤を固めていたのが大きな違いで、
     この為アメリカとヨーロッパの関係は、少々ややこしくなっています。
 1936年 大戦を予告するように、スペインで内乱が起きました。
     ソ連の実状を知らないアメリカでは、まだ共産主義は容認されており、
     世界共産主義運動に影響されたかなりの人数の若者が反フランコ側に義勇兵として参加しています。
     米議会がまるで腰を上げないのに腹が立ったのでしょう。
     ヘミングウエイもその一人。 映画「誰が為に鐘は鳴る」はこの頃の象徴と言えます。

     そういえば先日古いニュースで、制服らしき服装の若い女性グループを先頭に、
     ニューヨークのフィフス・アヴェニューを共産党が大パレードをしているのを見ました。
     アメリカ女性が黄色い声を張り上げ「インターナショナル」を歌っているのは少々異様でした。

     (この際フランコ側が都市の無差別空爆を行い、ニュー・ヨーク・タイムズを含め、マスコミが、
     これは一般市民に対するジェノサイド -大量殺戮- だ、と非難。
     世論も都市に対する無差別爆撃に反対していました。
     アメリカ政府の正式見解は出ていなかったようですが。 この項2013年1月)

 1938年 ドイツがチェコに進駐。戦争が始まる気運が深まり、戦争の準備が出来てないソ連は
         ドイツとの 相互不可侵条約に飛びつきます。
         この条約から一週間後の 1939年9月 ドイツ軍はポーランドに侵入。ソ連軍も東から雪崩れ込み、
         ポーランドを分割。
     この行為に対し英仏はドイツに宣戦布告、第二次大戦の始まりです。
     アメリカ国内ではこれ以前からヒトラーの危険性を指摘する声がありましたが、
     大恐慌を抜け出しつつあったアメリカ国内では、我、関せず。
     かのチャールス・リンドバーグは1930年代有名人としてヨーロッパ漫遊をしており、
     招待されては各国の軍事力の増強も見ていました。
     ドイツの工業力、空軍の整備には目を見張り、ヒトラーから勲章まで受けて帰国。
     その後、アメリカ国内各地で演説。ルフトワッフェの実力を知る彼は、ドイツとは戦を構えないようにと、
     訴えたのです。
     もっとも彼の一番の目的は飛行場を小さなコミュニティーにまでも建設させ、飛行機の使用を普及化させる事
     だったようです。
     彼の話にのり何百かの飛行場が全米に建設されたとの事で、ドイツに利用された一人と言えましょう。
     ドイツもアメリカ国内の運動員やシンパサイザーを利用して各地で集会を開き、ヨーロッパで戦争となっても、
     参戦<するべきではないとやっています。

 1940年6月 ナチスがパリに進駐。
     8月には有名な The Battle of Britain が始まっていますが、崩壊寸前だったイギリス空軍の猛烈な反撃で
     ルフトワッフェの損失が甚大になり、一ヶ月後にはヒトラーが突然大規模空襲を止め、イギリス上陸作戦は
     事実上中止状態。
     興味深い事に、9月に太平洋側ではアメリカが日本に対する戦略物資の経済封止を始めており、
     英国も同調しています。

 1941年 になると、イギリスは戦争による激しい消耗の為、外貨で軍需物資が購入できなくなり、
     チャーチルの要請に基づきルーズベルト大統領が議会の反対にも関わらず、レンド・リース法
     (簡単に言えば、つけの商売)を3月に通過させ、イギリスへの兵器、武器の大輸送が始まっています。

     こんな時でも一般アメリカ国民の厭戦気分は高く、その孤立主義を象徴するものとして
     ヘンリー・フォードを含む財界人や上院議員、有名人によって1941年4月にアメリカ優先委員会
      (The America First Committee) が発足しました。
     リンドバーグもそのメンバーの一員。名が示す通りアメリカの事が第一であり、
     ヨーロッパの戦争とは全く関係ないという考え方のグループです。

     ルーズベルト自身はイギリスの実状が手に取るように判っており、宣戦布告なしでも何らかの方法で
     参戦する事を模索していたようです。

 1941年8月にはルーズベルトとチャーチルが北大西洋上の軍艦上で秘密裏に会談し、
     チャーチルは米国の参戦を 要求。 ルーズベルトはアメリカの軍需産業と航空機、艦船の増強、
     世論を変えて行くには、1942年春か夏迄は参戦出来ないとみていたようです。

この時に交わした書類が アトランティック・チャーター と呼ばれるもので、国連が設立される際、国連憲章に組み込まれています。
 
 一、 どちらの国も、どんな侵略も求めていない。

 二、 領土の変更は、関連する人々の自由な賛成がなければ要望しない。

 三、 全ての人々が、彼等の政府を選ぶ権利を尊重し、最高の権利と自治を力によって奪われた人々に、
      それらが戻る事を要求する。

 四  全ての国が貿易と原材料の入手に同等な機会を与える事を勧める努力をする。

 五、 全世界の協同で、生活水準の向上を推進する事を願っている。

 六、 全ての国が、その国境内で安全な生活が出来るという戦後の平和を可能にする。

 七、 平和が大洋と海を、全ての人が何の妨げも無く航行する事を可能にする。

 八、 全ての国は、意見の違いを武力で解決する事を止める。

 
 皮肉な事に、12月8日に旧日本帝国海軍が真珠湾を攻撃し、時期尚早であったとしても、アメリカ国民を本気で巻き込む戦争になってしまった。
最近公開されつつある当時の機密文書では、正確な日時は別としても、大統領が日本の攻撃を前もって知らなかった
筈はない、という事になってきてます。 英国ですら警告を送っていたのですから。
知っていたとしたら、このルーズベルト、大変な策士。
山本元帥の「眠れる獅子を目覚めさせてしまった」という言葉はこの状況を良く表現しています。
山本元帥は気付いていたでしょう。 戦艦「メーン」、客船「リスタニア」と、歴史は繰り返したと言えます。
 
戦後のアメリカの方針を決定付ける事が大戦中に起きています。
終戦の即決を求めるアメリカは、ナチ・ドイツの力を弱める為に、スターリンに協力を要請、援助を行ったのです。
イギリスに対した様にレンド・リースを始め、相当な軍需品がソ連に輸送されました。

チャーチルはスターリンに危惧を抱き、ルーズベルトに警告していますが、深刻にはとられていなかったようです。
この際にスターリンの共産主義拡張主義を、チャーチルのように見破っていたなら、ベルリンの悲劇や南北朝鮮戦争、ひいては東ヨーロッパの悲劇は起こらなかったかもしれません。

ルーズベルトは病死、トルーマンが引継ぎ戦争は終結しましたが、ヨーロッパは二分され、
共産主義は孤立化されていきます。
アメリカは創設国の一つとして、国連に理事国として今回は加入。 マーシャル・プランの遂行と共に
世界の警察となっていったのです。
朝鮮動乱、ソ連の水爆実験成功で、アメリカの共産主義への恐怖は実際的なものとなり、
第二次大戦で対ナチ・ドイツのフリーダム・ファイターとなったアメリカは、
対共産主義のフリーダム・ファイターに変わったのです。
政府のプロパガンダもありますが、国民は信じきっていました。
 
その後はヴエトナム戦争。 元々は介入したくないのにスッポリとはまり込んでしまった紛争。
そもそも第二次大戦終了直後、フィリピンは独立しましたし、イギリスやオランダも政治的、経済的、
軍事的に植民地政策は続行できないとして、独立を認めましたが、
フランスは又してもヴェトナム、ラオス、カンボディアに軍隊を送り込み、独立運動を押さえようとしたのです。
この事は後程、ヴェトナムやアルジェリアに於いてフランスが手痛い損害を蒙る原因となりました。

アメリカは日本降伏直前にフランスに警告し、独立を認める事を要求しました。
皮肉にも日本軍と戦っていたホーチミンには、アメリカ軍のアドヴァイザーがついていたのです。
終戦時にフランスが外人部隊を繰り出さず、独立を認めていたなら、ヴェトナム戦争は、
あそこ迄いかなかったでしょう。
この時は捕虜になった日本兵も戦争に駆出されています。
しかし、政治的な立場から、アメリカはフランスの後押しせざるを得なくなっていました。
後はご存知の通り。 1954年5月にディエンビエンフーで仏軍が包囲され、屈辱的な降伏。

この三年前に朝鮮動乱が終わっていましたが、北朝鮮、中国軍との戦いで苦渋を舐め、
共産主義アレルギーになっていた米国が肩代わりした形となり、南ヴェトナムを支援する事になってしまうのです。

共和党のアイゼンハワーの時代は単なるアドヴァイザーという形を採って人数も少なかったのですが、
徐々に拡大体制を採って行ったのは民主党のケネディ。  ヴェトナム戦争も本格化していく事になります。
最大の理由は共産主義の拡散を防ぐ為。 例のドミノ理論ですね。
この時の国防長官がローバート・マクナマラ、コンピューターでの統計で戦争を遂行しょうとした男。
フォードの副社長の一人で、コンピューターを駆使するウイッズ・キッドと呼ばれ賞賛されていたのを、
ケネディ政権が声をかけたのです。
しかし、実戦の経験もない男が、数字だけで兵器の調達をし、戦争をしていると戦場では評判が悪かったようです。
もし彼が長官でなければ、戦争は朝鮮戦争の時のような形に展開していったのではないかと私は想像します。

 この戦争の以降から、アメリカは他国同士の紛争に血を流す事はない、と暫く大きな動きを示しませんでした。
ベイルートの米大使館爆破事件での多数の兵士の死亡、ソマリアでの失敗等で、もっと決定づける事に
なってしまいました。 イランでの人質奪回作戦にも失敗しアメリカの威信は失墜します。
その後、グラナダ、パナマとアメリカ大陸内での紛争に関与しますが、相手側の軍事力は無いも等しく、作戦は成功。国民も自信を回復したようです。
 
これらの後で起きたのが、湾岸戦争。
一つの独立国が他の国に侵略され、世界地図から抹消されかかったのは第二次大戦後ありませんでしたね。
これがアメリかの大義名分。勿論世界の石油供給に及ぼす影響は大変に大きく、
これがはっきり見えていた影の理由。
不思議だったのは、アメリカ、NATO、及び連合軍が開戦すると予測した外事評論家が日本にいなかったという事です。
しかし状況を見極めれば、アメリカがイラクに対し、攻撃を始めなければならなかった事が解る筈です。
私は攻撃はあると信じており、攻撃開始日を二週間前から予測し、(一日違いだった)、
開戦後には地上軍の攻撃開始日、その攻撃ルート迄も予測していました。
パウエル、シュワルツコフは名将と呼ばれ、本人達はそう呼ばれる事を避けてましたが、
私にしてみれば、素人にも見え見えの作戦、マスコミの騒ぎようは何の事かと思います。
ただし、副大統領候補に祭り上げられなかったのは立派ですし、連合軍の戦死者が極端に少なかった事には
感心しています。
具体的に状況を解析していたならば、戦争は始まる、連合軍が圧倒的な軍事的勝利を得る、
イラク側に10万人程の戦死者が出る、というのは想像できた事です。
この時のアメリカのムードは、攻撃が起こらないと考えていた人が多数派、しかし、もし戦争となった場合、
それを支援するかという質問には半分以上がイエスと答えていたと思います。
TVのニュースを見て、国民のアメリカ軍に対する株が上がった事は勿論です。

 ここからは脱線
この湾岸戦争の最中に日本の陰口を叩くアメリカ知識人が多くいました。日本は自分達の血を流さないで、
全てを金で済ませようとしている、云々。これはアメリカだけに限らない筈です。
今回のユーゴスラヴィア紛争終結後でもこの事は問題になるでしょう。
国連加盟国の経済大国として、憲法がそうだから、という理由で軍事的協力はできない
と言える時では、もうないようです。
直接的な軍事支援はしないにしても、はっきりした形で、何らかの支援をする事を考えなければならないでしょう。

今迄書いてきた中で、中立という事が三回程出てきたかと思います。
アメリカが、非武装中立はあり得ない、という立場を採っている事がお解りになったでしょうか。

歴史的に見て、非武装中立は成立していません。 強力な兵力があるからこそ中立を宣言しているのです。
スイス、リヒテンシュイン、ノルウエー、スエーデン等が第一次、第二次大戦を通し、中立を唱えていましたが、
ノルウエーは御存知の通りナチ・ドイツに占領されましたし、スエーデンは国の大きさの割りに強力な兵力を
地下等に温存し、中立国としてドイツ軍の通過を許したりしていましたので、戦禍は免れています。

隣国デンマークは第一次大戦時には中立国でしたが、早々にナチ・ドイツに占領されています。
スイス、リヒテンシュタインの方は、両国共山に囲まれ、大部隊の進入展開が難しく、国民皆兵の国、
優秀な武器の生産国としても知られており、攻め込むのは難しい、とされていました。

もし日本が中立を唱え、安保条約とかを破棄した場合、中国は別として、非難の声も出るでしょう。
戦争時の中立の条件として、どの当事者の肩も持たない、又、軍隊、軍艦が領域内に必要以上の時間居座る場合、
これを排除、又は接収しなければなりません。 それにはある程度の軍事力が必要です。

もう一つの問題は、中立国であっても、個人であれば、当事国に武器や戦争物資を売っても良い事です。
それ以外の 物資でしたら、国としても自由。但し、公海上の臨検は受ける事になります。 
日本の性格上、商売をする人間は多く出るでしょう。 沈没されても抗議が関の山。 護衛の必要性が起こりし、それ以上になると戦争に巻き込まざれるを得ないでしょう。

我々が育ってきた頃は、自衛隊の規模も小さく、自衛の為だけであり、非武装中立みたいなもの、
と言われていました。 又、多くの国民がそれを願っていましたね。
強くなった経済力と平和な生活に慣れ過ぎて、挙句の果てが戦争アレルギー。
いくら経済援助をしようとも、他国間同士の仲裁に経済力で割って入っても、それだけでしかないのです。
日米安保条約もありますが、アメリカ海軍は別として、空軍、陸軍は予備役の召集をしなければ、
日本を巻き込むような 規模の戦争には出動できません。

空軍でも制空権を握れる勢力に達するには数日以上かかるでしょう。
これからの戦争は昔以上に緒戦が重大。 機動力で最初の数日の間に敵を圧倒しなければなりません。
もし日本が攻撃され、最初の数日間で日本の軍事基地が叩かれたとすると、
米国がこの時点で介入する事は多大な損失と血を流さなければならない、と判断する可能性があります。
その時に、どの程度本腰を入れてくれるか、という事になります。
特に侵入軍があった場合、どの位の速さでアメリカが海兵隊の後に陸軍を派遣できるかです。
 (以上 1999年。 2013年。安全保障条約上、尖閣諸島問題で今のところ日本側に肩を入れていますが、中国はマーケットから言えば遥かに大きく、又、事を構えたくない国です。将来は  判りません)

私が言いたいのは、何もこれ以上の強大な軍事力を持て、というのではなく、普段から断固とした態度を取る事が
大事だという事なのです。
あのノルウエーですら、80年代でしたか、フィヨルドに侵入してきた国籍不明(ソ連)の潜水艇に爆雷攻撃をかけ、
沈没させたのではないかと言われています。
不審船に領海を侵犯され、自衛艦迄出動して何もできなかったのでは、日本の防衛力は元より、
自衛精神まで疑われてしまうでしょう。

朝鮮半島の情勢を見ながら、1998年の春過ぎに、北朝鮮が、刈り入れの終わる秋に戦争を始める可能性は五分五分と見ていました。
五分五分というのは無責任な言い方、どちらかしかないのですから。 しかし、どの位の日本人が、私の様な危機感を抱いていたでしょうか。
幸いにして戦争は始まりませんでした。その後、潜水艇の事件、ミサイル実験成功、スパイ船の領海侵犯事件と続き、
米朝会談により、地下核施設の立ち入りは認め、ミサイルの新たな実験は中断する事になっていますが、
飢餓状態も良くなっていないようで、査察結果いかんでは、危険は前よりも増すと見るべきでしょう。

以前、中国地方に幾つかの風船が飛来し話題になりましたが、あの当時から、私は北朝鮮からの物だと
信じていました。
たかがバルーンと馬鹿にしてはいけません。化学、細菌兵器使用時の為に風向きを調査していたのかもしれませんし。
第二次大戦時の日本の風船爆弾の事もあります。 風船爆弾では大した被害も無かったとされていますが、
最近の資料では、人心の動揺を避ける為と、落ちた先が殆ど山奥で影響が少ない、という理由でマスコミを
押さえていたそうです。

この資料によると、かなりの数が太平洋を横断したが、大きく遅いので、太平洋上で打ち落とされたのが多かったとか。
日本側で、アメリカでの被害がハッキリ判らなかった事と、重しに使った砂袋の砂から打ち上げ場所が判り、
爆撃を受けて中止となったようです。
もし、半年遅く、乾いた季節ならば、かなりの山火事を起こしていたであろう、との事でした。
当時の技術からは格段の進歩がありますから、バルーンであれ何を積んでいるか判らないので怖いのです。
 
 船頭多くして船進まず、とは、或る意味でアメリカの状態を示す良い例といえます
(特に現在の様な、共和党の強い議会と少数派からの大統領の場合)。
独裁政治の場合、一人の人物の考え方一つ。これ程危険な事もありません。
読みを誤って欲しくはないのですが、独裁者は往々にして自国の兵力を自己過大評価してしまいます。
世界のあちこちで、独裁者による紛争が起きています。これに乗じる独裁者が又出れば、アメリカ、NATO,国連軍でも多面戦争には対応できないでしょう。   (以上1999年)

ホーム・ページに戻る